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2024.10.01 ART TAIPEI 2024
Round5
4展 Shiten Thema【鉄道】
2016.08.31 (wed) - 2016.09.09 (fri)
OPEN  : 12:00-18:00
期間中無休
現在、この展覧会は終了しています。
今回のテーマは“鉄道”です。本年4月、当ギャラリーから南に300Mの所に鉄道博物館ができました。連日大勢の人が訪れていますが、その賑わいを眺めていてフッと感じた事がありました。

鉄道や道路を良く“大動脈”と表現する事があります。この大動脈とは本来人体の中に流れる血管ですが、全身を流れる血管のうち最も大きなものであることから、地理分野で比喩的に「大動脈」と表現することがあります。大地を人体と見立てるというのはこの事に限らず良くありますが、よくよく考えれば、人間の作り出すものは、その殆どが生命体(人間以外も含=バイオミメティクス)の部分的模倣のようにも感じます。

大動脈となす鉄道、そこから全国隅々まで延びる鉄道はあたかも人体全体の血管のようにも感じます。それは車を中心とした高速道路を始めとする道路網も然りであり、あたかも動脈・静脈のようでもあります。

鉄道と言うワード、線路もそうです、電車もそうです、様々なコンテンツがあります。“4展”Artist・4名がどの角度からこのテーマに切り込むか?こうご期待ください。

遠藤良太郎 奇天烈都市の暮らし
2016.06.25 (sat) - 2016.07.08 (fri)
OPEN  : 12:00-18:00
期間中無休
現在、この展覧会は終了しています。
独り夜道を歩く。

町は静かだ。

誰の姿も見えないが、建物の窓からは灯りがこぼれる。

この膨大な数の灯りの向こう側には、誰かの生活があり、人生があるようだ。

独り夜道を歩く。

冷たく、殺風景だった町は

一転、ひどく賑やかで騒々しいものになった。

いないようでいる、いるようでいない、

ゆらゆらとうつろいゆく気配を感じたとき、

独り夜道を歩く私は、独りではなくなった。

精華-ESSENCE 展
2016.05.21 (sat) - 2016.06.03 (fri)
OPEN  : 12:00-18:00
期間中無休
現在、この展覧会は終了しています。
京都精華大学を卒業し、現在京都を活動の拠点とする作家達のグループ展を開催させて頂きます。

学生の街・若者の街、京都の中でも一際、芸術表現の異彩を放つ京都精華大学。

今展は、その中でも特に先鋭的な作家を選抜し展観いたします。

ぜひ、高覧頂きますようご案内申し上げます。
Round4
4展 Shiten Thema【ごみ】
2016.04.10 (sun) - 2016.04.22 (fri)
OPEN  : 12:00-18:00
期間中無休
現在、この展覧会は終了しています。
BAMI gallery2階スタジオを使用する4名による実験展。4名の4、視点(してん・Shiten)、 各自通常の表現とは違う統一テーマにて展覧会を構成します。

この企画も丸1年となり第4回目を迎えます。

今回のテーマは“ごみ”です。実は第一回目のテーマに据えようかと悩みました。開始早々 “ごみ”というのもどうだろうか?との判断で第一回目はテーマを“お金”としました。このテーマも実は際どいのですが、際どいもの同士の中の選択でした。過去三回のテーマは“お金”“種”そして今回の“ごみ”(12月のさるは別にして・・・)お気づきかと思いますが、現代の人間社会の外郭=芸術家が描き出す現代社会の輪郭とその中に流れるモノ・思想・哲学・欺瞞と言うのものをどのように抽出するのかが、この企画のテーマとなっております。この網目(現代人間社会を構成)をどう解釈し、作品として図像化・具現化するのか、また何処にそれぞれの視点が当たるのかというのがコンテンポラリーアーティスト=同時代性芸術家の精度としては実に大事だと考えます。決して政治活動ではないし、答えがあるわけではない。ましてや正義感に溢れるメッセージなどは論外です。あくまでも。現時点の4名の制作テーマ性とは別の文脈・角度を求めるこの企画は、引いてはそれぞれの視野の幅を広げ、それぞれの芸術の栄養となる事を考え企画しております。 さて、今回のテーマ“ごみ”ですが、

今企画の起案ディレクターの私が考える“ごみ”というテーマ性には大きく分けて3要素があります。

1、価値観

2、大量消費社会の現出から生まれたPOPアート、その後の大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=大量ごみ産出社会のアート?

3、核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会

以上の3点が、私がテーマとし据えた根拠です。

1、価値観

Wikiに言い得て妙の一文がありますので転載いたします。

ごみは、誰がその物体をごみと考えるかに依存した相対的な定義である。ある集団にとってはごみでも、別の集団にとっては宝の山という状況が存在する。そこに含まれているものに対して価値をいかに見出すかであり、そのために必要な労働力と賃金とも密接に関係している。

昨今のごみ屋敷問題はある意味、その主体となる人間の精神構造の問題及び法規抵触 に集約されがちだが、実は案外、価値観という観点から、ごみ屋敷の主を見れば面白いと も思います。1対大多数。しかし社会には必ずこの1人というのが存在します。誰がどう見てもオカシな事象で取り締まり対象であることは間違いないのですが、この状況が1対大多数ではなく、それなりの割合があれば、これは少数派という事になります。そうなるとこの誠にもってオカシな事象も、不思議な価値?もしくは大多数はからみれば現代社会の集約された病理という枠組みを感じ始めます。つまり自らを取り巻く病理。社会としても見過ごせない??今現在、日本全国で少ない事象ではありますが、各所で問題となり、同じような現象が現れているのは何故なのか?という事から観る方が、良いか悪いかではなく、面白いと私は思います。

実に不思議ではないでしょうか?周りにさんざんやかましく言われても止めない。しかも全国どの場所で起こってもその主の対応が一緒・・・そして何よりもその対処を皆が汗した税金で数百万、場合によっては数千万円かけて処理するという、、、、全く価値のないというモノに大多数の善良な市民が大金を叩くと言う、パラドックスは実に面白いと思います。

又、本当に冷たい視線で、春秋の公募展などを見れば、ある意味瞬間的に美術館はゴミ屋敷ではないのか??とも私は思います。

2、大量消費社会の現出から生まれたPOPアート、その後の大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=大量ごみ産出社会のアート?

良く現代美術という言葉を日本人は使いますが、この現代とは一体何時なのかという疑問があります。常々本来はコンテンポラリー=同時代というのが、今現実を中心に考えれば正確であることは間違いありません。しかし、存在する言葉の定義としてあえて枠組みを嵌めるとするならば、欧米では1945年以降というのが定説です。ではその現代=1945年以降の芸術動向の大局を見れば何が見えるか?それはアメリカ主導でありPOPアートがそのエンジンだという事を置いて他にはないと思います。つまり現代美術とはアメリカが生んだPOPアートという事が言えます。極論かもしれませんが、枝葉末節の定義は様々ありますが、大局的に見ればこの2項目だと私は断定します。アメリカのPOPアート、その体現者はアンディ・ウォホルを置いて他には居ないでしょう。彼の作品はキャンベルスープから始まり、マリリンモンロー、、、等々、、大量消費社会をアイコン化することにより、その当時の社会の同時代性共感を得、又、今もってその価値がゆるぎないと言うのが実情でしょう。 それまで人間は地産地消というのが原則であり、自らの生活圏内にて補給できる食物を中心に生活を営んで来ました。しかし、産業革命以降様々な技術革新が進み、其れまでにない生活用品の選択の幅が広がりを見せました。又、マリリンモンローに代表されるように、映像から複写される様々な広告物が、実像のマリリンとはかけ離れ、多くの人の中にマリリンが住みだした。つまり、人間=その虚像をも大量に消費しだしたというのが、ウォホルのマリリンの文脈だと考えます。

さて、この大量消費社会というものはナンなのか?1945年以降から考えれば、現在の2016 年は約70年経過します。今現在も大量消費社会である事に変わりはないでしょう。しかし 大きな観点での違いを指摘すれば何が見えるか?

つまり大量に消費されないものをどうするのか?という事だと考えます。つまりゴミです。

今、世界中で盛んに叫ばれているのは“高度循環型社会”、つまりゴミをなくす社会です。

ウォホルのキャンベルスープは食料としての大量消費の象徴。では大量消費した後のゴミの象徴的アイコンとはナンなのか?

又、人間の実像を離れた虚像、映画・テレビ・雑誌というある意味の消費媒体が現時点ではインターネットという世界に転嫁され、もう人間の把握を超えた情報が散らばっている社会のこの実像は・・・・??

これらのゴミをどう見るというのか、ゴミから見てどのような状況なのかという風景こそが、現代の社会風景であり、実はそのゴミ社会を反映する芸術がナンなのか?が今もって見えていないような気がします。

これは、現在我々が消費している全てのものが、実は必要以上に生産されているという事が分かっていても、尚、そのことに歯止めがかからない社会実情があります。例えば電気もそうでしょう、具体的に形になった“ごみ”では無いですが、、ドンドン放出する一方で、それを維持する為に有機燃料を焚き続け、二酸化炭素を始め有害なゴミを少なからず大気に撒き散らしている。又、次の要素として説明しますが、有機燃料からの脱却として人間が作り出した半永久的にゴミを処分できない核燃料もそうでしょう。生き物の命を食むということで命が存続するという事も又然りでしょう。

ある意味、命の大量消費という冷静に考えれば神をも恐れない殺戮社会であるだけではなく、命をゴミとする社会。必要以上のモノが生み出されているにも関わらず放置されている社会とは??

3、核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会

核廃棄物は人類が生み出したなかでも象徴的なゴミではないでしょうか? 核のごみは数万~10万年にわたり、生活環境から隔離する必要がある。ガラス固化体を鉄の容器に封入し、さらに締め固められた粘土の緩衝材で覆う人工バリアを施すことで、地中に放射性物質が漏れ出さない対策を取るが、地震などの自然災害による影響を不安視する住民などの声が根強い。平成12年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」を定め、地下300メートルより深く安定した地層に処分する「地層処分」を決めた。しかし、14年から原子力発電環境整備機構(NUMO)が行ってきた公募に手を挙げる自治体はなかなか現れなかった。これが実情である。つまり数万年~10万年ゴミがゴミでなくなるにかかる・・・・作り出したものが責任を持てない、、どころか、、その数万年~10万年という時間も想像の範囲でしかない。人類誕生を遙か越える時間に対して本当に正確な検証が行えるわけが無い。つまり、核のゴミは絶対的な究極のゴミ。原発及び核関連施設に対しての政治的な反対表明をここで書いている訳ではない。今後のエネルギー政策に対しての提言でもない。そんな事は別の社会運動家がすべき事だと私は思う。まぁ少なからず現実的問題を把握し自身の考えを持つ事は必要だが、今回のテーマとしてここに記載した意図は、良いか悪いかは別にして、現実的存在する“ゴミ”であるという、その一点からである。消えうせる事の無いものという観点から、今世紀以降の人間が背負う事を無視した罪過という捉え方が正確なのではないか?つまりゴミとは誰かが作り出すが、それを誰か知らない人が知らない間に処理している、つまりアウトプットとインプットに齟齬を来たしているというのが本質なのではないか?と考えます。この循環の流れが途絶えた社会という事から考えれば、我々は何を無くしたのか?という大きなテーマに突き当たると思います。

何度も言いますが、アートに検証の必要はありません。しかし、その本質を鋭く突く“視点”が最も重要です。芸術家が社会の構成員として存在しているのはその文化=つまり現実社会の人が営む光景を具現化するからに他ないと私は思います。決して義憤からくる社会告発ではありません。本当に芸術家=コンテンポラリーアーティストだけが見える“光景”に他なりません。

故にその観点からこのテーマ性について考えてもらい、4展Shitenの4名、BAMI gallery2階にアトリエを構える芸術家4名には大いなる今後の栄養となる事を期待し、この企画を開催いたします。

公庄直樹 いきもの彫刻 「気配のカタチ」
2016.03.23 (wed) - 2016.04.04 (mon)
OPEN 12:00~18:00
期間中無休
現在、この展覧会は終了しています。
ある時ふと生きものの気配を感じる時がある。 視界の端に動くものが映る時もあれば、鳴き声や足音を耳にする時もある。そんな生きものたちが放つ気配を木の塊に詰め込んで、その美しさと存在感を感じられるような生きもののカタチを木彫で表現したいと思います。